女池小学校ものがたり

令和5(2023)年は創立150周年

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 明治7(1874)年3月 女池小学校の歴史の始まり
 そのころの女池の名主であった新田半人さん(にったなかと 1851-1931)の家を借りて学校が開かれました。これが女池小学校の始まりです。このときの新田半人さんの屋敷は、現在の第四北越銀行女池支店の斜め後ろ辺りにありました。
 それまでは、現在の新潟市江南区嘉木(かぎ)にあった「省弊舎(しょうへいしゃ)」という学校の分校の一つが女池にありました。

 この学校は「己千舎」(きせんしゃ)と名付けられました。

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 「己千舎」の「己千」は、中国の書物「礼記(らいき)」からとったと言われています。
 「礼記」の「中庸(ちゅうよう)」第20章の最後(第19節から第20節)には、次のように記されています。

 有弗學 學之弗能弗措也 学ばざること有り。之を学んで能くせずんば措おかざるなり。
 有弗問 問之弗知弗措也 問わざるなり。之を問いて知らずんば措かざるなり。
 有弗思 思之弗得弗措也 思わざること有り。之を思いて得ずんば措かざるなり。
 有弗辨 辨之弗明弗措也 弁ぜざること有り。之を弁じて明かならざれば措かざるなり。
 有弗行 行之弗篤弗措也 行わざること有り。之を行うて篤からずんば措かざるなり。
 人一能之 百之 人十能之 己千之。
  人一ひとたびして之を能くすれば、己おのれは之を百たびす。
  人十たびして之を能くすれば、己は之を千たびす
 果能此道矣 雖愚必明 雖柔必強
  果して此の道を能くすれば、愚なりと雖も必ず明に、柔なりと雖も必ず強し、と。
(要約)
 人が一度でできることは、自分は百度やってできるようにする。
 人が十度やってできることは、自分は千度やってみる
 このようにしていけば、どんな人でも分かるようになるし、身体の弱い人でも強くなっていくであろう。どんなことでも、くじけないでやり抜くことが大事です。

 この教えは、現在の当校の教育目標「寛く 剛く 賢い子」につながるものがあります。
 これからも大切にしていきたい教えです。

 明治7(1874)年4月 「女池校」に
 さて、各地で学校ができ始めた頃は、学校の名前には「舎」や「塾」などの文字が付いていることが多かったのですが、このときから、その学校の地域の名前が付けられることに変わりました。
 そのため、「己千舎」も「女池校」と呼ばれることになりました(嘉木校の附属校として。明治17(1884)年に独立)。
 新田半人さんは、女池校をよくするために、力を尽くしました。「女池小学校沿革史」には、そのことについて次のように記されています。

 (現代風に言いかえてある)
 明治8(1875)年10月に、早通村から古屋を買い入れ、新田半人の屋敷の一部に学校を新しくつくり、学校を整えられた。新田半人は、自分の屋敷内の大事な松を切り、新しい学校の敷板、そのほかの角材を寄付されただけでなく、男女の便所までも自分のお金を出してつくってくださった。その上数年間、屋敷も無料で貸してくださった。代々の先生も自分の家に泊めてくださって、いろいろな面で世話をしてくださった。女池の村の教育の基をつくってくれたことを、村民は本当に忘れてはならない。

 明治34(1901)年 「女池尋常小学校」に
 小学校令により、小学校は、「尋常(じんじょう)小学校」と「高等小学校」の2種類とすることが決められました。「女池校」は「女池尋常小学校」となりました。
 次いで、明治33(1900)年、小学校令の改正により、尋常小学校は4年間、高等小学校は2年間と期間がきちんと定められ、国民は全員が4年間は勉強することとなりました。
 記録によれば、女池校に「高等科」はなく、全員が4年間の勉強で終わりになりました。
 下の写真は明治38(1905)年のもの(右側に新田半人さんの写真が入っている)です。
 このときの女池尋常小学校の全校の児童数は51人、1学級で、先生は1人でした。

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 明治40(1907)年 小学校令の改正
 子どもたちは、全員が6年間、小学校で勉強することになりました。
 それまでは4年生で勉強は終わりでしたが、6年生までになると校舎がせまくなります。
 明治42(1909)年、女池出身で北海道へ一人でわたり、大変な苦労の末に、海産物店を開いて大成した渡辺長蔵さん(わたなべちょうぞう 1850-1914)が、女池村の子どもたちのために、多額の寄付をしました。
 そのお金で新しい学校のための土地(親仁山)と建物を買うことができたのです。(大正13(1924)年には、息子の泰邦さんも多額の寄付をされました。)

 明治43(1910)年 親仁山校舎に引っ越す
  新しい学校は、渡辺長蔵さんが寄付した親仁山(おやじやま)に出来て、引っ越すことになりました。場所は、現在の今の「女池ひまわりクラブ第1」がある辺りになります。校門だけが今もそこに立ち、その頃の面影を残しています。
 このときは、1階建てでしたが、大正14(1925)年に2階建て校舎が完成し、体育館(当時は「運動場」と言っていた)や図書館も出来ました。

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 上の写真の後ろに見えるのが親仁山の校舎です。
 「第1回卒業生及び修業生記念」とあるように、明治44(1911)年に初めての卒業式が行われました。そして、映っているのが当時の全校児童(103名)です。
 親仁山に学校があったのは、明治43(1910)年から大正時代、そして昭和37(1962)年までの55年間です。

 大正時代の女池小学校の様子を、地域の方が語ってくださった記録が残っています。

 三大節(天長節、紀元節、明治節)になると、学校で式があって、みんな羽織、はかまを着けていったもんです。そのときには、新田半人さんが、シルクハット姿で女池小学校へ来られたもんでした。子どもたちは、口々に「新田様だ、新田様だ」と言ったもんでした。
 遠足のときには、祖父にわらじを編んでもらったもんです。着物に三尺帯をしめて、ふろしきににぎり飯を包んで腰に付けて行きました。今みたいにのりなんかあまりないころだから、にぎり飯はみそを付けて焼いたものでした。萬代橋のわきを歩いて、日和山まで行ったもんです。
 学校に通うときは、村道を通って行きました。夏になると、砂が焼けて、熱くて、まるで砂浜を歩くようでした。小張木の子どもたちの通学は大変で、鳥屋野潟のわきの、たけの長いヨシが生いしげっている道を通ってくる。冬になると、この辺りは土地が低いもんで、あちこちの道が水びたしになって通れない。だから三平橋(さんぺいばし 今のウオロク女池店の辺りにあった)まで、水路を小舟で送ってもらい、そこから村道に上がって、学校まで歩きました。昭和23(1948)年に栗ノ木排水機場ができて土地が良くなるまで、ずっと続いた通学の様子だったんです。

 わたしも、大正時代に、親仁山にあった女池尋常小学校に通いました。
 そのころは、三つの学年が一つの組になってました。全校で2学級でしたから、先生も二人おられました。
 子どもたちはみんな、書物をふろしきに包み、腰に結ぶか肩から斜めにかつぐかして、着物姿で、げたをはいていました。
 冬は、教室のかたすみに、炭の入った角火鉢(かくひばち)が一つあるだけでしたが、みんな、寒さには強かったようです。
 3年生にならないと鉛筆やノートが使えなかったので、それまでは、読方(よみかた)1冊と石板(せきばん)、石筆(せきひつ)を、ふろしきに包んで、持って行くだけでした。
 勉強が終わると、教室から運動場(体育館)までぞうきんがけをしました。どんなにさわぐ子でも、そうじや学校で決められたこと、時間などは、実にきちんと守っていました。

 昭和16(1941)年 「女池国民学校」に
 戦争が始まり、国民学校令により、「女池尋常小学校」から「女池国民学校」に変わりました。
 このころにに女池小学校で過ごした地域の方のお話です。

 わたしは、昭和16(1941)年に、女池国民学校に入学しました。
 みんな農家の子でしたから、春の田植え休み、秋の稲刈り休みには、よく手伝ったもんです。
 夏はザリガニ採り、秋はイナゴ採りをしたのを覚えています。夏休みには、薬草採りをしました。たくさん採って学校へ持って行きました。ヨモギなどは、女池のこの辺りは無くなってしまい、信濃川の土手まで採りに行ったもんでした。薬草を売ってお金にかえ、それで学校の道具を買ったのでしょう。
 プールは無いから、三平池(さんぺいいけ 「女池」とも言う)、男池(おいけ)、蓮潟、鳥屋野潟で泳いだもんです。池の水はとてもきれいで、魚もたくさんいましたね。
 学校では、8月に鳥屋野潟で遠泳をしました。

 昭和22(1947)年 「女池小学校」に
 昭和20(1945)年に戦争が終わり、昭和22(1947)年に「女池小学校」になりました。
 これと共に、子どもたちは全員、小学校6年間、中学校3年間の合計9年間、学校に通うことができるようになりました。
 この年の1月、新潟市でいっせいに給食が始まり、女池小学校でも、親仁山校舎で初めての給食が作られました。

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 昭和24(1949)年 校章が決まる
 この形の輪郭(りんかく)は、女池の「女」と、MEIKEの「M」を表しています。
 雪の結晶を表す六角形を、緑の松が三つの方向から囲み、その中央に小学校の「小」を浮き上がらせています。
 雪は、郷土のしるしで、けがれのない清らかな心でありたいと願う気持ちがこめられています。
 松は、郷土を表す木でもあり、いつまでも変わらない、めでたいしるしとされています。常に変わらない気高さとしっかりとした志を持ち続けて、すくすくと力強く育ってほしいという願いがこめられています。
 「小」は、赤く彩られ、熱意とまごころを表しています。
 写真は、体育館入り口に設置されているものです。

 昭和25(1950)年 女池小学校区での耕地整理
 女池、神道寺、小張木の農家のみなさんが、自分の土地を出し合って、現在の女池小学校の場所に田を持っていた農家の方たちと交換(こうかん)して、新潟市に寄附(きふ)しました。
 しばらくの間は、この土地はグラウンドとして使われてきましたが、児童数が増えてきたため、もっと大きな校舎が必要になり、ここに新しい校舎を建てることになりました。しかし、もっと広い土地が必要になり、グラウンドに続いていた土地を持っていた渡辺一義さんと話し合い、親仁山の校地と交換してもらいました。

 昭和38(1963)年 新しい校舎
 2階建ての新しい校舎(四つの教室)が完成しました。
 しかし、このときは、校舎が、紫鳥山をはさんで、親仁山と現在の場所の二か所に分かれていたので、給食を運んだり、体育や音楽の時間に行き来しなければならず、雨や雪の日は大変だったそうです。

 昭和40(1965)年 現在の校歌が出来る こちらをクリックしてください。新しいページが表示されます。
 作詞は、当時の校長だった、高橋正直(たかはしまさなお)先生です。
 作曲は、小野秀夫(おのひでお 本名:小野豪夫(おのたけお))先生です。
 昭和61(1986)年11月に、作曲者の小野先生により、校歌の一部が手直しされました。メロディの一部が変更されて二部合唱ができるようになったり、器楽で伴奏できるように編曲されたりしました。
 
 昭和40(1965)年 1棟木造校舎が完成
 五つの教室と給食室、保健室、用務員室、宿直室が付け足され、今の1棟の位置に木造校舎が完成しました。
 これで、全校児童が一つの校舎で学ぶことができるようになりました。
 しかし、児童数は増え続け、毎年のようにプレハブ校舎が建てられました。
  昭和40(1965)年 1棟木造校舎(学級数 9)
  昭和41(1966)年 1棟木造校舎とプレハブ5教室(学級数11)
  昭和42(1967)年 1棟木造校舎とプレハブ7教室(学級数12)
  昭和43(1968)年 1棟木造校舎とプレハブ8教室(学級数14)
  昭和44(1969)年 2棟鉄筋校舎完成、体育館増築
            1棟木造校舎と2棟鉄筋校舎、プレハブ3教室(学級数17)
  昭和45(1970)年 1棟木造校舎と2棟鉄筋校舎、プレハブ5教室(学級数20)
  昭和46(1971)年 2棟鉄筋校舎増築グラウンド完成
            1棟木造校舎と2棟鉄筋校舎、プレハブ5教室(学級数21)
  昭和48(1973)年 3棟鉄筋校舎完成
            1棟木造校舎と2棟鉄筋校舎、3棟鉄筋校舎、プレハブ5教室(学級数28)
  昭和49(1974)年 1棟木造校舎と2棟鉄筋校舎、3棟鉄筋校舎、プレハブ7教室(学級数29)

 昭和41(1966)年 体育館が完成

 昭和45(1970)年 プールが完成
 これまでは、年に2、3回、市内の金衛町浜で海水浴授業が行われていました。また、昭和42(1967)年から、南万代小学校(みなみばんだい しょうがっこう)や長嶺小学校(ながみね しょうがっこう:現在の「新潟市立中央図書館ほんぽーと」にあった)のプールを借りて水泳授業を行っていました。
 どちらも歩いて行ったので、大変だったそうです。
 現在のプールは、昭和55(1980)年に新しくできたものです。

 昭和50(1975)年 3棟鉄筋校舎増築
 このときは、まだ2棟の3階と3棟の3階はつながっておらず、いったん2階に下りて行かなければなりませんでした。
 また、前庭やサブグラウンド(現在はビオトープ)が整備されました。

 昭和52(1977)年 上山小学校に分離
 上山小学校が開校し、女池小学校から200人の子どもたちが転校していきました。

 昭和61(1986)年 1棟鉄筋校舎改築
 これまで木造だった1棟の校舎が、鉄筋校舎に建てかえられました。
 プレイルームや、車椅子(くるまいす)のまま校内に入れるスロープができました。
 増え続ける児童数に対応するため、付け足され続けて、ようやく出来上がったのが現在の姿になります。

 都市化の波に乗り、児童数が増え続けたため、女池の農家である渡辺一義さんたち、多くの農家の方々にご協力いただき、現在の女池小学校があります。
 地域のみなさんは、創立以来、女池小学校を愛する気持ちから、学校のため、子どもたちのために、命ほど大切な土地や多くの私財を投じてくださいました。
 最後に、耕地整理が行われて今の場所に女池小学校が移ったときのことについて、当時の農家の方のお話を紹介します。

 女池の人は、耕地整理のとき、みんなで学校のために土地を出したもんだろもね。今でこそ、土地のことで、もうけようと思う人もいるけど、昔は、「学校のために」と言うと、だれでも喜んで土地を出したものだった。いやがる人なんかいなかったね。
 学校は大切なところで、生活のよりどころだったから、女池の人は学校を大事にしたわね。
 学校の親仁山からの移転では、一番土地をたくさん役立てたのは渡辺一義さんだったろう。自分たちの米びつ(良い米が実る田)を全部、学校のために役立てたもんで、あのときから、農家をやめなさったんでの。

~校舎の移り変わり~

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女池校  明治8年から42年に使われた「女池校」の校舎図です。2階建てでした。

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親仁山校舎  明治43(1910)年から大正13(1924)年まで使われた校舎と校舎図です。

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昭和43(1968)年 増える児童数に校舎が追い付かず、プレハブ校舎がずらりと並んでいます。

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昭和50(1975)年 3棟鉄筋校舎の増築が完成しました。
手前から3棟、2棟、1棟です。このとき、1棟は木造でした(昭和60(1985)年に取り壊されました)。

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